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第一章 北九州から世界を揺らす  振動源「ユーラス」の誕生と発展 3.「ユーラスのためならエンヤコーラ」 振動くい打ち機の顛末

2025-06-01
[ユーラスとともに40年]
 ユーラス開発の初期の頃は、安川電機の第一号の子会社として動き始めたばかりの安川商事の営業部門が、客先からのいろいろな検討依頼を玉石混淆で取り次いできてくれた。受ける方も五里霧中で、出来るだけ応じるようにしてきたつもりである。これらが積み重なって今日のユーラスの地位が確立されたと言えよう。しかし、大半の検討依頼は、残念ながら日の目を見ずに消えて行き、中には一時期だけは成功したが長続きしなかったもの、受け手側の情報力開発力の不足から失敗したものもあった。まとまった機械としての振 動応用機の開発・展開は、それぞれの分野で詳しく説明することにして、ここでは単体と してのユーラスの応用展開の代表例について説明しよう。
 初期の頃には土木関連の応用展開の依頼が結構舞い込んできた。田中角栄の「列島改造」のはしりの時期でもあったので当然である。例えば海底の浚渫に関連した専用機の開発依頼も来たことがあったが、その段階ではまだ十分対応できる状態ではなかったので、立消えになったものがあった。初期の段階で成功しかかったものに「振動くい打ち機」がある。
 昭和30年代初期は戦後の混乱から漸く抜け出し始めて、後期の最終年のオリンピック で象徴されるように、文字通り「建設の槌音」が全国に響き渡っていた時期であった。
 こういった背景の中で「振動くい打ち」の話が出てきたのであった。
 当時は技術情報の検索システムが漸く軌道に乗ってきた時期で、世界の技術文献の要約紹介が東京永田町の近くの技術情報センター行われていて、我々は、このセンターが発行する情報誌から検索した雑誌文献から、海外情報を得ていた。特に振動機械に関するものは特殊分野で、なかなか見つからなかった記憶がある。
 その中で、「振動くい打ち」に関する記事として、中国の長江に架けられた大橋の事が出ていた。当時70歳を過ぎていた毛沢東主席が完成記念に橋の下を泳いで渡った事でも知られていた。橋脚の基礎工事には、当時まだ中国と蜜月時代にあったソ連の技術が使われ、その中核が大形の振動くい打ち機であった。僅か1ページにも満たない資料で、くい 打ち機のイラストも出ていた。
 ホッパー・振動輸送用途から振動応用の分野を広げることに心を砕いていた頃に、この ニュースは耳寄りなもので、これまでの小容量のものから一気に大形化出来るという期待に、関係者一同大いに胸を踊らせたものだった。
 大きな問題は、通常の交流電動機では、始動時に大きな電流を喰うので、一般的に電源容量を最小限にとどめておきたい屋外の工事現場にとっては大容量のモータを使用するには余り好ましくないことだった。
 いきなり大形に挑戦する事は危険性があったが、それまでの1kwにも満たない主力機種から、くい打ち用に22kwの振動モータを試作した。これは起動に有利な特性を持った モータ (巻線形) を使ったもので、安川電機の研究所の前のスペースでテストを行った。
その試作機は、そのまま第一線で活躍し、一時はF社と共同開発の形で、 海岸の埋め立て地のくい打ち工事で結構活躍した。あの洞爺丸が遭難した函館七重浜の護岸工事、安川電機の八幡工場の事務棟新築工事、M社の防府工場の新設工事などでも使われた。
 同じ処で地固め用「振動タンパー」も、試作を行い、これも建設現場で一時期活躍したが、後に軟弱地盤の工事中に自沈して姿を消して大騒ぎになったことがあったという話も聞いた。最終的には、建設会社のF社に売り渡して、その後もお役に立っていたようである。先方の事情もあり、残念ながら追加リピートの受注はなかった。
 くい打ち機の工事対象は、主として2種類に大別される。工事区域の周囲の縁の保護に使われる鋼矢板の打ち込みと、コンクリートくいの打ち込みの2種類である。
 現在では、コンクリートくいの打ち込みには大きな木ねじ状のスクリューを押し込んで、 長い丸穴を掘り、そこにくいを入れて打ち込む無騒音無振動工法が主流を占めているよ うで、僅かに鋼矢板の打ち込みに振動打ち込み方式が残っている。


<1-3挿話1> くい打ち櫓の林立の幻想 皇居周辺の建設ラッシュ
 昭和33年(1958) 初めての東京出張のときに、夜になって仕事が終わって、事務所があった当時最大のビルだった大手町ビルから皇居のあたりを散策していたとろ、辺り一帯が工事地区ばかりの処に迷い込んだ。そこは文字通り見渡す限り巨大な工事現場の連続であった。
 生来の方向音痴に加えて、初めての土地、夜間という2重3重のハンディによって完全に迷って、行けども行けども工事中の囲いと、くい打ち機の櫓の林立した中を1時間近くも彷徨った記憶がある。東京には28年北アルプス登山の時に立ち寄った時が生まれて初めてで、その時は2回目だったが、当時の状況はまだ戦後の混乱が残っていて、大都会の華やかな印象はなかった。この時の暗闇の中の櫓の記憶が、くい打ち機の開発の際の私の思い入れに繋がっている。


<1-3挿話2 > 産業スパイの真似事 他社の振動くい打ち機の稼働状況盗撮
 くい打ち機の開発を始めようとしていた頃、偶々近くの建設工事に他社の振動くい打ち機を使用しているという情報が入ったので、小倉井筒屋付近の新築工事を見学に行った。既に工事区域には塀が巡らせてあり、関係者以外の出入りは禁じられていた。仕方なく向こうのビルに入って階段の踊り場の処の窓から、当時流行っていた8ミリカメラで密かに撮影した。幸い誰にも見とがめられず目的を果たし、持ち帰って上映した。実にスリル満点の調査だった。それまでは関係者一同誰も文献だけで実物を見たことがなく、是非実物の稼働状況を観てみたいと思っていた時期だったので、くいの取り扱い、運転頻度、起動・停止の様子など大いに参考になった。
 我々が開発しようとしていたものは、前に述べた同期理論を利用して2台の振動モータ軸を平行に並べて互いに逆方向に回転させ、横方向の振動を打ち消しあって一方向の直線振動を取り出すもので、従来形の汎用モータによる振動装置(アンバランス重錘) のベルト駆動・ギアーで同期運転を行う方式に比べはるかにシンプルだと自負していた。この点では間違いなかったと思っている。


 <1-3挿話3 > とっさの動きで危険回避 くい打ち機 「落下」事故
 ユーラス及びその応用機の安全性については別の章 (4-8) で詳しく触れるが、 くい打ちテストの時「あわや」というハプニングがあった。
 くい打ち機に長さ目盛りをつけた矢板くいを取り付けて振動させながら、機械の直ぐ下で運転時間、振幅、入力と嵌入深さの関係を記録しながら観察していると、突然音が低くなって、急に嵌入速度が増し、丁度「落下」するような速さで落ちてきた。一緒に作業していたU君共々とっさに飛び退いたが、一瞬でも遅れていたら2人ともくい打ち機に潰されていた処であった。
 後で聞いたところでは、くい打ちテストを行った安川電機の所在地、北九州市黒崎駅裏はJRで一番海抜の低い処で、当然工場内の殆どが以前の海岸地帯を埋め立てたところで、建物付近以外の土地は、地表面の約50位が固められてあるに過ぎないということだった。他に適当な場所がなかったこともあるが、事前の調査不足であった事を後悔すると同時に大事故にならなかったことにほっとした。もし殉職でもしていたら、テストの途中で大いに「くい」 ?が残った事だっただろう。先年40年ぶりにU君と再会したら、彼もこの時のことをよく覚えていた。

<1-3技説2 > 振動より「よいとまけ」 小形くい打ち機の方式の変遷
 その後数年経って、埼玉県のN社から電柱の支持ワイヤ用のくい打ち機の引き合いがあり、最初に開発したくい打ち機と容量は比べものにならない程小さかったが、試作テストを繰り返し、ミニくい打ち機として立派に働くようになった。此処では「双子形」と軽量・コンパクトの特徴が大いに役立った。
 工場での耐久テスト中に、テスト場の地盤が緩かったので、夜中に地中に潜り込んでしまって大騒ぎして探したという笑えぬ事件もあったと聞いている。 同一機種としてはかなりまとまって納入することが出来た。これも数年間続ける内に相手方の方で問題が発生して方式が変わり、いわゆる「よいとまけ」 方式になった。 モータが自分でワイヤを巻いてガイド軸の中でつり上がり、つかみを離して自重で落下して、下に取り付けられた小形のくいを叩き、その衝撃力で打ち込むものである。これはユーラスの振動よりはるかに激しい力を受ける。いわば元に戻った形になったが、これもユーラスの耐震技術で何とか立派に商品にすることが出来た。
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